レサパンと人間社会

さて、いかに私がレサパンを愛しているか先日激白しましたが最近ひとつ気になっていることがあります。実は今の時期はレサパンの交尾の季節なので、動物園同士でレサパンの交換をしてのカップリングが盛んになっているのですが、その際、誰も彼もが“お嫁入り”とか“結婚”とか“妻”といった単語を使うのです。

おかしくねーか?!

彼らは毎年同じ異性とカップリングするとは限らないし、飽きたら違う異性を探しても何ら問題ないし、つまるところ、彼らは交尾するほど仲が良いというだけ。それを「恋」と表現するのまでは許せるとしても「愛」とか「結婚」とかってどうなんですか?人間だって人によって捉え方が違のが「愛」「結婚」。あまつさえ、それらは自然な感情の発露というより制度に規定されている感情である可能性があるモノ。それをレサパンに当てはめるというのは、
自然の生き物を観察するうえで、ものすごい予断なのでは?

お乳が出なくなって子育てを放棄した初産のレサパンが人工飼育で生き残った1匹に再会したとき、その仔レッサーを威嚇したそうです。とても人なつこい(レサパンなつこい)レサパンだったので、飼育員はとても驚いたとか。ほかのレサパンの仔レッサーには優しいのに、自分の遺児にだけ威嚇するということで、動物愛好家の中には「母としての自覚がない」「ひどい」「ヤンママ」といった反応を示す人がいます。でもよく考えてごらんよ。レサパンは「人工飼育の可能性」なんて思いもよらない。子育て放棄=自分の仔の死、と理解しているはずです。それが生きていて目の前に現れたら、世にも恐ろしいことじゃないですか?「死んだはずの仔の匂いがこの仔からするわ!」みたいなね。人間にたとえたら、墓までつくった子が目の前に現れるようなもんだ。人間は可能性を吟味する能力がズバ抜けてるけど、レサパンは可能性をどこまで吟味できるのか?

まあ長々と書きましたが、動物は動物。そこに人間と同じ感情、社会制度を重ねる行為は少々傲慢なのではないかと私は思う、ということでした。このテーマは「犬に服着せて喜んでいる人間は果たして愛犬家か?」というテーマにも通じますね。